過去日記22


後巷説百物語のあと、なんとなくこれで物語は終わりかな?みたいな気分で続編を追ってなかったんだけど、帰省の飛行機の中で前巷説百物語を読んだら又市とおぎんがすごくときめく感じの青年と少女だったのでときめいた。

それに舞台が江戸だし、これは!と思って一番大好きな東都小石川絵図と絡めて妄想してたらすごいすごい楽しかった。
実家にある本の内容を、帰宅してからオタク活動するときに参照するために引用しておく。
たのしい。


橋姫
橋姫の社は山城の国宇治橋にあり。橋姫はかほかたちいたりて醜し。故に配偶なし。ひとりやもめなることをうらみ、人の縁辺を妬給ふと云。(今昔画図続百鬼)


伊勢の山田の人々は外宮に奉仕する子良(こら)(物忌)たちの歩きながら交す話に耳かたむけて卜(うらな)いとし、これをオイゲを聴くといつたという。イゲは夕占(ゆうけ)の転だという説もあるが明らかでない。辻占・橋占は右と同様のことを辻・橋上でするもので、橋と辻とは同じく未知の霊魂の去来する場所である故に神秘的にみられたのである。(民俗學辭典)


人柱の恐ろしい風習が、古く我々の社会にもあつたか否かの問題とは離れて、水の神の祭祀に参与していた巫女が、あつて彼等の祖先に、甘んじてそうした尊い犠牲になつた者のあることを、語り歩いていた時期が久しかつたものと思われる。(民俗學辭典)


牛天神社
小石川上水堀の端にあり。一に金杉天神とも称す。この地を金杉と唱ふるによりてしか号(なづ)く(金杉、古へは金曾木に作る。小田原北条家の『所領役帳』に、この地名を注せり。金剛寺の条下に詳らかなり。合はせみるべし)。
(略)
牛石(裏門、坂の下り口隅の方にある巨石(こせき)をさして名づく。次の社記の条下に詳らかなり。南向亭〔酒井忠昌、一八世紀中頃〕云く、「頼朝公〔源頼朝、一一四七-九九〕の腰掛け石なり」と。いぶかし)。
 社記に云く、往古寿永元年壬辰(一一八二)の春、右大将頼朝卿東国追討のとき、このところの入江の松に船を繋ぎて和波(なぎ)を待ちたまふ(この辺り上古は入江にて、いまの飯田町の東入り堀のあたりへ続きてありしといへり。牛天神の外の坂を網干坂と呼び、また同所に蠣殻坂などいひてあるも、入江によりたる旧称なりといへり)。その間夢に、菅神牛に乗じ、頼朝卿に二つの幸ひあらんことを示したまひ、武運満足の後は必ず小社を営み報ずべしと託したまふ。頼朝卿、夢覚めて後傍らを顧みたまへば、一つの盤石ありて、夢中菅神乗じたまひたりし牛に髣髴たり。よつてこれを奇異とせられしが、果たして同年の秋頼家卿(一一八二-一二〇四)誕生あり。また翌年癸巳の夏は動かずして平家ことごとく敗れしかば、その報賽として元暦元年甲辰(一一八四)この御神をこの地に勧請ありて、神領等寄附ありしと云々(また『江戸名勝志』〔藤原之廉、一七三三〕といへる草紙に、「北条氏康(一五一五-七一)兵を起こされし頃、夢中に菅神牛に乗じて降臨あると見て、後この地に天満宮を勧請なし奉りしを、その後家臣遠山丹波守〔遠山綱景、?-一五六四〕当社を修営せり」と。上の社記に異なり)。(江戸名所図会)


○彼岸桜
牛天神
同(立春より五十日メ)
小石川。別当、竜門寺。この山中、花多し。門前を流るるは、神田へかかる上水なり。(江戸名所花暦)


(建暦三年八月)
廿二日、庚寅、天晴、未剋、鶴丘上宮の宝殿に、黄蝶大小群集す、人之を怪しむ。(吾妻鏡


五行の土
 五色・黄色
 五時・端午
 五畜・牛
 五金・金
 十干・戊/己
 十二支・辰/未/戌/丑


そして土剋水!


謎な部分1
東都小石川絵図に出てくる橋たちは、自分橋(私設の橋)なのかどうか。
自分橋なら問題はないけど、もし自分橋でなかったら、御入用橋(公用橋)の管理は幕府がするので、話が変わってくる。

◇謎な部分2
金曾木の由来は金曽木彦三郎か、鉋削ぎか不明。