過去日記24


サイト直した!
カフェ師弟書いた!

カフェ師弟

わーい!
遊戯王カフェでは三千円のコーヒー出してるってネットで見たよ!
家族にその話をしたら、ブルーアイズが三千円なら、ブラマジの商品は二千五百円なの?って訊かれたけどそれは知らない…。

以下は私があとで福岡に帰った時に参照してニヤニヤするためのメモ。
本当は実家の本を福岡に持っていけたらいいけど、なかなか難しい…。

あと、ごくねちのさうやくふくするよしってなんぞ?と思って帚木読んでたら、相変わらず紫式部清少納言ディスってて嬉しくなった。

◆新歳時記 虚子編より
土用
 一年を四季に分つ他に、五行(木・火・土・金・水)といふものを考へた。そして春は木、夏は火、秋は金、冬は水の支配するところとして、残つた土の支配するところは各期の終りに置いて土用とした。
 それで四季共に十八・九日間土用といふものがあるわけであるが、今は普通土用といへば夏の土用のみを指すことになつたのである。七月二十日の小暑から約十八日間がこの期に当る。
 土用は土気が旺んで、暑熱が甚だしく、又地気が一変する時であるから、或は物忌などをして自重する。
 土用入の日を土用太郎といひ、第二、第三日目を土用次郎、土用三郎といふ。土用明。

◆日本歳時記より
土用(もろこしにては、土旺と称すまた土王ともかけり。)
 春は木旺し、夏は火旺し、秋は金旺し、冬は水旺す。五行のうち、土は四時におゐてあらすといふ事なし。故に定れる位なく、専なる気なくして、四時のおはり、辰未戌丑の月の末ごとに、寄旺する事各十八日、一年にすべて七十二日なり。此七十二日をのぞく時は、木火金水も又各七十二日づヽにして、一年をなす。
 しかるに土は木をおそる故に、春の土用は専ならず。秋の土用は土衰老して威なし。冬の土用は水と木の間にあれば専ならず。夏の土用は火と金の間にある。夫土は火に生ぜらる故に、夏の土用を以て、正しく土王の時とす。土よく金を生ず。故に秋の金を土より生ずるなり。
 未の月は火金の間にあり。又一歳の中間なれば、中央の土一令をこヽに掲て、五行の序をなすのみ。故に月令にも、季夏の次に、中央の土をのせたり。
 (我国俗土用の間日といふ事あり。しかれどももろこしには、その説なければ、その理なき事なるにや。)
 俗説に、六月土用に入日、蒜及赤小豆を食へば瘟疫を避とて、今の人のよくする事なり。されば源氏物語の菷木の巻に、ごくねちのさうやくふくするよし侍り。いにしへより有ける事ならし。しかれどもその本設をしらず。
 本草に蘇頌がいはく、昔人正月の節五辛食。以厲気避。薤葱韮蒜薑謂也。又肘後方に、元日及人日麻子、小豆各七枚を呑ば、疾疫を消ず。とあり。これみな歳初のまじなひ事と見えたり。かヽる事を伝へあやまりて、六月にするにや。猶博識の人に尋ぬべし。
 山茶(ツバキ)は、六月土用の中に接てよし。

※ごくねちのそうやくふくするよし→極熱の草薬(夏バテしないための薬)服する由?
※薤葱韮蒜薑 らっきょう ネギ にら ニンニク ショウガ

◆日本職人辞典より

傀儡師 かいらいし
 傀儡は木の人形のことで、傀儡師は人形つかい。くぐつ、くぐつまわしともいう。
(中略)
 江戸時代にはでこ(でく)まわし・首かけ芝居・山猫などと呼ばれた。その様子は塵塚談(文化十一年刊)や只今御笑草(文化九年刊)から窺うことができる。
 人形を入れた小箱を背負い、腰に下げた鉦を叩きながら廻って来る。呼ばれると小箱を首から下げ、その上で人形を義太夫節にあわせて舞わせる。三味線は使わない。人形を舞わせる様子は只今御笑草に、昔から摂津国西の宮に伝わる伊吹山おろしなどという唱歌に流行のことばを交え、果にはいつもちゃんちゃん坊主といって手袋のようなものに人形の頭を付け、ちゃんきりというものを左右の手に一つずつはめ、「こっちの子、向こうの子、隣の子もござれ、中よしこよし中よく遊べ」と言って、人形二つを面白く使う、とある。最後に山猫を出すわけであるが、これは毛皮で造った鼬のようなもので、「チヽクワイヽヽヽ」と言って仕舞ったり(塵塚談)、「ヤンマンネッコにカンマンショ」と言いながら子供を追い回して面白がったりする(只今御笑草)。絵はその場面で、子供が逃げ出している。
 なお、塵塚談に、「我等十四五歳頃までは一ヶ月に七八度づヽ来りしが、今は絶えてなし」、只今御笑草に「蜀山云、予が稚き時まで傀儡師あり」と書かれている。また南水漫遊拾遺に「近世寛延宝暦の頃迄、西の宮より傀儡師来りしが、今は絶て見へず」とあり、「当時の(現在の)首かけ芝居といふもの其類なるべし」ともある。塵塚談の著者小川顕道は元文二年(一七三七)の生まれであるから、十八世紀中葉には絶えてしまったものと思われる。(吉川)

※巷説はだいたい天保のあたりが舞台らしいから、おぎんはかなり懐かしい生業をしているのかな?
 天保のころに山猫廻しを知ってる人ってもうかなりの老人だろうから、
 「昔はよく来てたけど、もういなくなったかと思ってた。まだいたんだ懐かしい」
 的なことを言われる感じなのかな。

◆江戸生活事典より
願人坊主 由来と制度
 江戸の橋本町には願人坊主(がんにんぼうず)という者がいた。
 怪しいものではあるが、延享元年(1744年)十一月鞍馬寺大蔵院の書き上げでは、当院の坊主を願人という。
 義経が奥州下向の時、坊人が本尊多聞天へ心願して随従し、武運を開かれたので源公願人といい、それから坊人は諸国を徘徊し、加持祈祷をなし、札守秘符を勤める俗法師になった。今は当院(大蔵院)にても、余院にても、多く願人あれど、元は当院(大蔵院)のみのことで、他にはなかった。円光院(これも鞍馬)の願人は、むかし大蔵院から勝泉院へ分け与えたのを、元禄三年に円光院の支配に移したものである。
 願人には許し状を渡して、一カ国切りの支配であったが、元亀(1570-1573)以来改めも行届かず、修験道に入る者も出来た。江戸に多く願人がいるようになったのは、慶長(1596-1615)以来のことで、幕府からお尋ね物(隠密御用、すなわち探偵)の時は、関東八州(の願人へ?)は回状を以て申しつけ、余国(の願人?)へは当地(京都?)より人を出して触れる。
 当院所属以外の者が諸国にあって、それが本寺を持たない願人である。だが愛宕、多賀等の神社からも願人と唱える者を出している。これも本寺はないわけだ。
 とにかく、こうした由来はあっても、江戸の橋本町の連中は御祈祷や加持などはせずに、大道芸人になってしまった。橋本町から出る大道芸人の主なる者が住吉踊で、他はチョンガレ、チョボクレ、阿房陀羅経などである。

特技いろいろ
 願人坊主も身分の調べが面倒ですが、それ以前にはオボクレ坊主と言って、小さな紙片を持って何かしゃべるやつがある。考え物と称して、朝問題を配っておいて、夕景にその答えを書いたものを持って来るやつがある。
 マカショマカショ、ワイワイ天王なんてやつは、天狗の面を背中に背負って、絵を書いた紙を子供に撒いてあるく。スタスタ坊主といって、ただ方々歩くだけのやつがある。
 代待代参と称して、何の神様に御参りするとか、庚申様を祭るとかいうことで、銭を貰って歩くのもある。こういうものが廃れて、前に言った住吉踊、カッポレ、阿房陀羅経の類になったものと思います。