過去日記29


母の実家(東北の山奥)が、電車なし・バスなし・乗合タクシーで最寄駅まで30分・最寄駅の電車は平日で一日上り下り合わせて17本とかいう限界集落に近いような村なので、母の小さい頃の習俗について教えてもらうと興味深い。
今回は竈っこ焼きについて聞いたので、ついでに家の本で竈っこ焼きについて調べてみた覚書です。

・旧の三月三日にやる。
・昔は河原で竈を作っていた。
・今は重箱にまんじゅうや煮しめをつめる。
・桃の花や桃の実の型に蒸し立てのまんじゅうを入れて型を付けて、食紅で色を付ける。
・東北の旧暦三月三日はまだ寒いので外に行きたくなかった。
・寒くて困った。

ということで、母の実家は旧上閉伊郡の村(今は合併して市になった)なので、ものの本によると旧暦の四月一日か八日にやっているところが多いはずで、母の村はひと月早く春山入りをしていたものと考えられるため、そりゃ寒いわ、っていう結論に至りました。そりゃ寒いよ。



あと、

・昔は学校のトイレの中に洗面器を置いて、洗面器に張った水にクレゾールを入れて手を洗っていた。
・しばらく同じ水を使って、汚くなったら先生が水を取り換える。

って言ってて、おお…岩井志摩子の『密告箱』っぽい世界だな……って思った。
コレラではなく赤痢や腸チフスの予防だったと言ってたけど、どれも同じようなものに思えてしまう…。



文学の世界と言えば、父が、

・大学時代は小学校の宿直(とのいじゃなくてしゅくちょくの方)のバイトをしていた。
・小学校が会社に委託して、委託された会社が大学の寮に話を持ってきてた。
・宿直バイトの担当は先輩から後輩へ引き継がれる。
・だいたい一年交代。
・だから宿直バイトは代々の寮生が受け継いでいた。

って言ってて、『青い山脈』の世界だな……って思った。
古い上着よさようなら。

父とエゴノネコアシアブラムシの虫癭の観察とかしてます。
あと今日お墓参りがてら府中の浅間山公園に行ってきたんですが、
浅間山(笑)ただの丘でしょ(笑)
と思ってたら意外と木とか頑張ってたので、浅間山!ってなりました。
意外と木とか頑張ってた。コナラとか。



『荊楚歳時記』には、
  三月三日(禊祓す)士民並びに江渚池沼の間に出て、(清流に臨んで)流杯曲水の飲をなす。
とあって、禊祓や清流は明代のテキストで補われたものである。しかし『荊楚歳時記』の右の本文にそえた隋代(五八九-六一八)の杜公瞻の註に祓除(みそぎはらひ)と言っているので、水辺で穢れを祓ったことはたしかなのである。註は、
  注に謂ふ、今、三月、桃花水の下、招魂続魄するを以て、歳穢を祓除すと。周礼に、女巫、祓除釁欲すと。鄭注に云ふ、今、三月上巳・水の上(ほとり)の類なりと。司馬彪の礼儀志に曰く、三月上巳の日、官民幷に東流の水の上(ほとり)に禊飲すと、弥々此の日を験あらしむるなり。(下略)
とのべて、昔は、三月のはじめに桃の花の咲いた水辺で身の穢れを禊祓すれば長命になる、と信じられたことがわかる。
 これが前奈良期の文武天皇のころから宮廷にはいり、曲水の宴をおこなうようになった。しかし『日本書紀』は顕宗天皇の元年・二年・三年(四八五-八七)に、すでに上巳(三日)の曲水の宴があったとしている。これはおそらく日本にも古来、三月弥生の天気のよい日に山遊び、川遊び、浜遊びがあったのを、中国風に「曲水の宴」と『日本書紀』編者が大袈裟に書いたものであろう。このように私がかんがえるのは、夏の終わり六月に「夏越の祓」(大祓)、冬の終わり十二月に「追儺」の大祓があったように、春の終わりの三月(季春)に罪穢を祓う祭りがあったに違いないとおもうからである。それが中国の上巳の祓除の風が宮廷にはいったために、三月三日に山遊び、川遊び、浜遊びが固定し、桃の節句になったのである。
(中略)
三月節供に山・磯遊びをする風は、花見などと結合しながらもまだ全国によくのこっている。徳島県の日和佐の磯遊びなどは、テレビで紹介されるほど全町民が浜に出て御馳走を交感しながら食べる。対馬、五島や九州の西海岸、あるいは周防大島も磯遊びがさかんで、「磯の口明け」という汐干狩がおこなわれる。五島ではこれを山磯遊びといって、酒宴とともに凧揚げをする。また信州の下伊那地方では「三月場」といって、川の畔で子どもが蓆をしき、竈をつくって飯を炊く。ママゴトのはじまりである。岩手県上閉伊郡地方ではこれを「竈(かま)こ焼」といい、盆のボンガマまたは辻飯とおなじことをする。
五来重『宗教歳時記』平成22年1月25日株式会社角川学芸出版初版発行 同左発行初版64~66ページより引用)

三月節供サンガツセツク
(中略)
三日に固定したのは支那の影響であるが、三月は農事の上での重要な季節とされ、物忌や禊をおこなったもので、雛人形の起りもみそぎに使う形代で、これにけがれをつけて流すのだといわれ、あるいは流して神送りをする神の形代とも考えられている。この頃にイソアソビ・イソマツリと称して海辺に出かけ潮干狩や飲食をする習俗は日本の南北を通じて見られ、また春遊び・山遊び・花見正月などといつて山や野に出かけ、終日を遊び暮すところも多いが、つまりは家に居て仕事をしてはならぬ神ごとの日だつたからである。
民俗学研究所編柳田国男監修『民俗学辞典』昭和26年1月31日東京堂出版初版発行 昭和40年4月20日発行29版244ページより引用)

山遊び(歳)ヤマアソビ
旧暦三月から四月にかけて、一定の日に山や海辺に行つて食事をする風習は全国的である。これを三月三日や四月八日としている所は特に多い。磯遊ビとか野ガケなどの名でも呼ばれ、春のある日を戸外で飲食しなければならぬという習わしは古くからつづいているものであろう。潮干狩などもこれから起つているらしく、花見という風習もまたもとづく処はここにあつて、山遊びのついでに、もしくはその一つの目的として、山の花をとつてきて家に飾る風があつたものと思われる。奈良県の一部で三月三日を花見といい岡に登つて飲食し、岡山県でも同じ例が四日にある。東北地方では四月一日・八日などが多い。
民俗学研究所編柳田国男監修『民俗学辞典』昭和26年1月31日東京堂出版初版発行 昭和40年4月20日発行29版640ページより引用)

 三月三日女の子が河原に出て、ご飯をたいて遊び、ひなに供えたニンニクを軒下につるすと悪病よけになるという。(安芸郡馬路村)
(桂井和雄『民族民芸双書79 俗信の民俗』1973年11月20日岩崎美術社発行第一刷 252ページより引用)

 ところが、柳田は右のように述べた後で、次のような仮説を加えるのである。「花見が一つの祭の式であつた時代が、上世にはあつたらしいといふことが考へられる」と。驚くべきことに、特定の状況のなかで生み出された宇宙樹としての枝垂れ桜のはるか彼方に、「古代の信仰習俗としての花見」つまり「鑑賞と宴としての花見」の起源を幻想するわけである。
(中略)
 柳田国男がほのめかした「花見の祭」とは、おそらく「春山入り」行事のことであろう。この行事に関連させて、大胆な仮説を展開したのが、折口信夫であり、そしてまたその直系の弟子である桜井満であった。彼らの議論は、特定の状況、特定の桜、特定の人々といったような限定を抜きにして、一般論として、文献以前の古代人にとって、桜は信仰の対象であったあるいは信仰システムの要素として機能していたという。
學燈社國文學』平成13年4月10日発行第46巻第5号4月号掲載小松和彦「信仰としての桜」39-40ページより引用)